火打岩(明神岩)(松本市)
 倭(やまと)橋の西方、梓川の川縁に火打岩(明神岩)と呼ばれる岩がある。 岩は東西9m、南北7.5mあり、松本市の文化財に指定されている。この岩は、その昔は3階建てビル ほどもある大岩だったらしいが、今は土砂に埋もれて高さも人の背丈程しかない。
  この岩は、かつての松本市、波田町、  梓川村の3市町村のちょうど境界にあた  る場所に位置していた。   昔は川の氾濫の度に流路が変わったり  土砂が出たりしてムラの境界が判りづら  くなってしまったことは想像に難くない  が、ビルほどもある大岩は常によい境界  の目印となっていたのだろう。   (左写真)火打岩全景。上に祠が乗っ  ている。
 (上写真)火打岩のクローズアップ  火打岩はチャート (chert) という堆積岩でできている。チャートは硬い石で、ハンマーを打ち下ろ すと火花が飛ぶことから昔は「火打石」と呼ばれていた。(別名:角岩、珪岩など)  長野県下では、チャート層は糸魚川静岡構造線より西側の古生代中生代の地層にはよく挟まれている が、糸魚川静岡構造線より東側の新生代の地層には全く見あたらない。これは新生代の地層と、それ以 前の地層の堆積した環境が異なるからだ。  チャート層は海洋の深海底に堆積している珪質軟泥が固結したものである。珪質軟泥とは、海水中に 溶けている二酸化珪素(地表付近にある岩石に最も多く含まれる成分)が沈殿したり、海洋に生息する 放散虫(ラジオラリア)の殻(二酸化珪素でできている)が海底に積もってできたものとされている。 写真ではチャート層特有の縞模様がよく見える。深海底では1000年で数mmの速さで地層が堆積すると見 積もられているので、これだけで何十万年もの時間が重なっていることになる。  日本のはるか南の深海に堆積したチャートは、その後プレートに乗って日本列島にたどり着き付加し たのである。一方、新生代の地層は、フォッサマグナができた頃に、今ある場所で堆積したものだ。物 流にたとえると、チャートは外国からの輸入品である一方、新生代の地層は現地生産されたものである。
 火打岩が地学的に面白いのは、この巨大な岩塊が存在している場所についてである。松本平の真ん中 で、しかも梓川の辺にあって、河川による浸食や運搬力に絶えず攻撃されているはずのこの場所になぜ、 この岩体が存在するのか? そもそも小さい岩体ならとっくの昔に川によって運び去られているだろう から根のある岩体なのだろう。近くには根石という地名まである。ずっと以前より顔が出ていたのか? 断層運動によって持ち上げられたのか?興味は尽きない。                                       (宮坂 晃)

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