今回のドイツ・デンマーク視察は、当初は昨年5月に計画をしておりました。 ところが3月11日の東日本の大震災や原発事故により、国を挙げての支援が必要となり延期しておりました。
一方、福島の原発事故は全世界に衝撃を与えました。そのような中で、ドイツでは今までの原発推進から国として自然エネルギー利用に方針を変えました。
スイスやイタリア等でも、原発事故を起こした日本から学んで脱原発についての方向性を出してきています。
日本においては福島の原発事故の原因解明が一向に進まない中でも、政府は「収束宣言」を出しました。日本政府の対応は、これが原発事故を起こした国の真剣な対応なのかと思ってしまいます。 その上、現在、大飯原発の再稼働を行うことを進めています。国を二分した論議や行動が起きています。 そんな緊迫した中での視察となりました。
今回の視察は、環境、農業、高齢者福祉、子育て、地方自治政策等のレクチャーと、現地視察を行うという盛りだくさんの内容を目的にして、準備を進めてきた視察でもあります。 以前私が視察した、ドイツのごみ政策やデンマークの福祉政策の新たな状況も再度勉強できればと考えていました。
田植えの準備時期と重なり、連休中に畔草刈りや、肥料撒きを行いました。 帰国後、すぐに代かきが待っているという強硬スケジュールの中での出発となりました。
今回は上田市議会の議員有志5人(ネットワーク上田・・小林隆利議員、佐藤清正議員、日本共産党・・渡辺議員、久保田議員、金井議員)での視察となりました。このような視察は、上田市議会では初めてのことでありますが、今後の上田市政の発展に寄与できるような視察にしたいと思って、自己資金60万円をかけての視察となりましたが、その目的は十分達成できたと確信しております。 報告は通訳を通じて聞いてきたことを断片的に伝えることしかできません。日本版の資料もありますが、直接自分が体験したことをわずかですが綴りました。不十分なことは初めから承知の上で、拙い報告をしながら視察の責任を果たしたいと思いました。(数字も間違って聞いたこともあると思います) 日記風なまとめをして、報告にしたいと思っています。
朝3時に起きて、仏様に視察の無事をお祈りして線香をあげました。 お茶を飲み、妻に載せてもらい集合場所である市役所に行きました。
ここからジャンボタクシーで成田空港に向かいました。午前4時20分発。 午前8時30分に成田空港に到着し、朝食を食べました。
視察の計画を立てて頂いた富士国際旅行社の小野寺さんと、添乗員の井村好実さんと打ち合わせを行い、今後の視察の説明を受けました。
日本円2万円をユーロに換えました。障害保険にも入りいざ出発と思いきや、11時40分発が12時30分に変更に。(よくあること)午後12時50分フライト。
11時間25分かけてコペンハーゲンのカストロップ国際空港に到着。 ここから、飛行機を乗り継ぎ国境にあるスイスのバーゼル国際空港へ。 午後8時、タクシーで1時間かけてスイス国境を超えてドイツのホテルに向かう。
午後8時40分、フライブルクのホテルに到着した。外はまだ太陽がでており明るい。何か変な感じである。9時30分から、疲れていたが、ホテル内で夕食を兼ねてワインを飲みながら食事をした。
10時頃になりようやく暗くなってきた。シャワーを浴びて、日本で心配している妻に電話をする。日本は朝の5時50分とのこと。
長いフライトで疲れたが、ようやくついにドイツに来たかという感じになる。
午後11時10分ベッドに入る。
午前4時起床。5時間ぐっすり寝た。時差ボケはなくなった。 今日は最初に、ドイツ視察の大きな目的の一つである反原発の村「シェーナウ市」へ行くのである。事前にベッドの上で資料に目を通す。 5時30分になると外が明るくなってきた。 6時ごろから一人でホテル付近の散歩を行う。日本と同じ気候で朝はヒヤッとする感じである。爽快感がある。 午前7時朝食。パンを中心としてハムや野菜等のバイキング方式である。好きなものをとりながら楽しく食事をした。
午前9時 ジャンボタクシーでシェーナウ市へ。同行して頂いた通訳は前田茂子さん。ドイツ在住38年で、フライブルク市公認講師、市経済観光メッセ公社日本・アジア業務窓口として働いている。 夫はチェロ奏者であり、ドイツを中心に演奏活動をしている。鎌倉にも自宅もあるとのこと。
大型タクシー内で前田さんのレクチャーを受ける。約40分間。
フライブルク市 人口22万人。1,300年から1,400年の歴史がある。 学生が3万人もいる学生の街でもある。ソーラシステムの研究所があり研究者の人材を養成している。1,500人の人がおりヨーロッパ最大の研究所である。
電車は緑化軌道(線路の間が芝生で緑になっている)で雨水の浸透ができ、振動防止にもなっている。 東西60キロ、南北140キロの「黒い森山脈」(標高1,500m)がある。
消費税19%。食料は8%である。個人住宅は作らない。公有地が多い。 建築もシステムがしている。屋根の角度は45%、色も同じと都市計画がしっかりしている。電柱は地中化されている。
シェーナウ村に入ると、時期も良く若葉の季節である。日本とちょうど同じ時期であり誠にきれいである。「黒い森」を超えると、広い草原と手入れの行き届いた森林が見える。複層林である。山桜もちょうど咲いている。 とにかく美しい。絵ハガキを見ているような風景である。
シェーナウ(美しい村という意味)人口2,500人 10時 EWS(市民による電力供給会社)の会議室でエネルギー広報担当のエイヤー・シテーゲン博士(女性)からレクチャーを受ける。
EWSは職員70人。資本金190万ユーロ(1億9千万円)。 日本からの実習生(東京出身の女性で32歳)の熊崎さんも会議に参加して説明をしてくれた。 住民の運動が世界を動かした。ドイツのメルケル首相が脱原発への転換をした、モデルの自治体となったところである。 住民の力が大きな力を発揮している。 フランス、スイスをライン川で囲まれている。スイス国境に稼働中の原発がある。ドイツ、フランス、スイスではライン川の豊富な水を利用できる。 フライブルクは反原発の流れをくむ世界有数の「環境都市」である。 シェーナウの運動も、フライブルクの皆さんの多くの支援があったからできたとのこと。
・1986年4月26日 チェルノブイリ事故が起きる。
1,600キロも遠くにあるシェーナウ村にも被害を与えることになる。
フランスでも原子力を推進しているが、色々な問題が起きているようである。
子どもたちが外で遊べなくなり、野菜も食べる事が出来なくなった。スュラーデック医師が中心になり声を上げるようになっていった。
国にも手紙を書いたが国からの反応はなかった。ある家族も新聞にグループを作りませんかと、広告を出した。
政治家(緑の党)の中でも、女性の中からも色々なことができるという声が出てくる。
色々な小さなことからやろう。節電コンクールなど多彩に行う。
・1987年
スュラーデック医師の妻がエネルギーを考え直すために、節電を始めた。
今までは一極集中型の電力体制であった。使い放題の人には高く、節電している人には安くすべきである、という声を上げてきた。
今までの電力会社の体質を変えるためにやってきたが、権力の傲慢さを感じた。住民のやっている色々な運動を電力会社は無視をし続けた。
ドイツには原発は17基あるが現在は8基止めている。
・1991年
ソーラー、水力、個人エネルギーシステムにも耳を貸さない。
住民の運動が強くなる。市と電力会社には送電権、配電権があるが、住民の中にも関心が高まってくる。
次の契約が切れないうちに早く決めてしまおうと電力会社は市に迫ってきた。
1995年に契約が切れるので、市と住民の話し合いで、4年待ってほしいと要望した。
村長は住民が圧力をかけてくると思っていた。しかし、村議会では前倒しで契約が決まってしまった。
運動の高揚の中で、住民投票を行うことになる。
パン屋さんも協力し住民投票に賛成、イエス(ヤーハイ)クッキーも作られるなど多くの小さな特徴ある運動が繰り広げられた。
結果は、色々な運動の中で、56%の賛成で議会の議決を覆すことになった。
・1994年
住民は電力会社を作ろうと考えた。許可得るために、経済産業省に多くの資料を提出した。電力を自分たちで供給するため電力供給会社EWSを設立した。
・1995年
電力問題で選挙に勝てると頑張った。選挙では無所属1名が増え、住民グループに賛成の人が多くなってきた。
議会ではEWS(住民がつくった電力会社)に決めた。今度は、電力会社が議決を否定する運動を行う。住民投票が再び行われた。
・1996年
住民投票に52%で再び勝つことができた。
地域内の送電網の買い取りという問題が起きてきたが、ドイツ全体で4億円の募金が集まり、多くの国民の協力により買収ができた。
・1998年
EUの電力自由化指令に従って、ドイツも電力市場の完全自由化を実現した。これで、ドイツは顧客が自分で電力供給会社を選べるようになった。
この電力自由化以来、原発以外からの電気、環境に優しい電気を求める人が増えてきた。
現在、EWSは13万世帯を超える顧客と、いくつかの企業を顧客として抱えることになった。
シェーナウ村の事が全国的ニュースでも知らされてくるようになる。
・2011年
世界の最も重要な環境賞の一つである、グリーンノーベル賞といわれる、ゴールドマン環境賞を、スュラーデック女史が受賞した。
原子力に反対する100個の十分な理由というパンフを作っている。
日本語版もあり頂いてきた。住民やお母さん達の、放射能から子どもを守りたいという小さな原発反対から起こった運動が、環境に優しい、人間にやさしい電力を供給する会社の設立を行い、実際に村の原発依存の電力をなくして行った運動は、日本の運動にも重要な示唆を与えていると思った。
時間の少ない中を熱心にレクチャーして頂き、その後、緑と花が咲いて美しい村内を、30分ぐらい歩きながら案内をして頂いた。
村の住宅の屋根にはソーラーが点々と載っている。
住民投票を2回も行った戦闘的な村とは思えない。穏やかな小さな村の中に、ゆったりと生きている住民がいた。
住宅に乗せられた太陽光パネル | |
教会にも太陽光パネルがのせられている | EWSの前にて |
村の一番上に教会があるが、何と教会の屋根にまでソーラーが載っているではありませんか。 平穏な生活をしていた村の住民が、遠く1,600キロも離れたチェリノブイリから飛んでくる、放射能に危機感を寄せて、お母さん方がわが子を守るために行ってきた小さな運動が、ドイツ政府の原発方針を変えさせた。 福島の原発事故を、わがことのように考え機敏に国の方針を変更するドイツの勇気と、それを支えている住民運動の素晴らしさを知った。 美しい小さな村を守るために住民が頑張っている姿に大いに感激し、シェーナウ村を後にした。
電力供給会社EWSの責任者と共に(左から3番目、4番目は説明してくれたエイヤー・シテーゲン博士)=5月10日
所長のハイデル・ベルクマンさんから説明を受ける。
職員は所長2人、パート3人、インストラクターはアルバイトや自営業など多数いる。
建物は市がつくり、NGOドイツ環境自然保護連盟(全国に会員50万人)が運営をしている。
土地も市が所有しており、全体が公園化している。日本からの学生が2人実習に来ていた。
課題は環境の意識啓もうと教育である。訪問客は年15,000人。
学校や幼稚園の実習や課外授業をインストラクターを付けて行っている。
施設も低エネルギーに出来ている。体に害のない建物で木造(ドイツのとうひの木)、ソーラー、屋根の緑化、建物の一部に土盛りをしてある。
1年に100回の原発や自然などの講演をしている。月1回ファミリーにオープンしている。
ごみの回避、健康な食事、エネルギー等の講演を1時間から1時間30分で行っている。
州とフライブルクで予算を出す。小さい時から自然を発見する喜びを感じてもらう事が大事である。
野菜やハーブを作り、農家の訪問もして、リンゴジュースを作ったり、学校とタイアップして講師を派遣している。
施設の隣接には小学校や中学校、実習校や大学もある。小学校は午前中に6時間事業を行い、1週間に一度、午後に来てここで学ぶ。
省エネルギーを学ぶため、小学校の屋根にもソーラーが。学年に2人エネルギー委員を作り、ここの施設で人材育成を行う。
委員は年間4日、風力を見に行ったり、ワークショップなども行う。そのためのプランニングも行っている。
年間250のクラスがここに来る。子供が体験したことを家庭で話すことが大事である。
文部省から1年間環境を体験するために、2人の職員が派遣されてきている。
日本からの実習生も、今日は木曜日なので、農園の庭いじりの日であり草を取っていた。
予算は24万ユーロ(3,000万円位)公共団体から、プロジェクト委託費、寄付、会費、今回のような視察受け入れで賄う。
広報が大事であり、色々な催しに参加している。持続性を持つ環境の賞をユネスコから頂いている。
プログラムの計画はエコ施設が州政府と、自治体の意見を聞いて作る。目標が決まれば楽しい仕事である。
学校の担当の先生に大きな責任が出てくる。人間生の発揚に力を入れている。フランスとは違う。第2次世界大戦の反省があり、統制的ではない。
ドイツの環境政策はきめ細かく行われている。環境政策の考え方やそれに基づくフライブルクでの具体的実践は素晴らしい。環境都市といわれるゆえんであろう。
(写真)5月10日:木造で造られたエコ施設でのレクチャー(左が所長、通訳の前田さん、佐藤議員)
5月10日:エコ施設の農園内で(左の2人の女性が日本から来ている実習生)話している久保田議員と小林議員
タクシーで市街地へ向かう。P‐Rの看板が見えてきた。
無料の大きな駐車場である。街中を車が通過しないように、高いところに別な道路を作ってある。住民は車を駐車場に入れて、電車で街中に向かうことになる。環境が守られている。電車は10分おきぐらいに走っている。
電車に乗り街中へ。学生の街であり、若者が一杯乗っている。大学が多く、2,000床のベッドを持つ病院もある。
若者が、住民が街中に集まるように都市計画がされており、広場もあり若者が語らっている。とにかく、人が大勢おり活気のある街である。
夕食は教会を中心に都市計画がされた、石畳の街中を見ながら歩き、街中にある地元のビヤガーデンへ。ビールで乾杯をした。ビールは甘く、日本のように冷えてない。地元の住民が大きな声で話をしながら、大きなビールを何杯も飲んでいる。テーブルは満員である。
フランクフルトソーセージを頼んだ。2本でてきたが、しょっぱくてだれも2本は食べる事が出来なかった。ドイツ人は血圧があがるぞ。
街中には信号機がなく、電車が走り、自転車が走り、タクシーも走り、人間もいるが、すべて人が優先である。
タクシーでホテルに帰り、シャワーを浴び、下着を洗濯、午後10時ベッドに。12,000歩き充実した1日であった。
(↑写真上)5月10日:広い駐車場がいくつもあり、自家用車が駐車してある。ここから電車で街中に行くのである。
午前4時30分 起床
ベッドの上で昨日の行動や研修内容をまとめる。
午前6時 朝の散歩に出る。すがすがしい朝である。すでにバスが走り自転車も走っている。 午前7時 朝食 2日目の朝食であり様子も分かり美味しく頂く。
5月11日:朝6時前から走っている路面バス
5月11日 左側が車道、真ん中自転車レーン、右が歩道ときちんと分かれている |
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住居が2,000戸、人口は約5,000人。12年前に出来た団地。 自家用車を持たない生活を推奨。車はすべて大型の集合駐車場が2ケ所できておりそこに入れる。 団地内を通過する交通車両は基本的にない。道路は袋小路式で住宅地の静けさを保っている。
5月11日:団地内は車を規制し子供が自由に遊べる道路に
5月11日:路面電車と緑化された線路、隣の建物が団地
団地の脇を路面電車が走っており、緑化軌道である。400mに1カ所ぐらいの駅がある。電車が来てもうるさくない。音も雨水も防御されている。
団地内の集合住宅の建て物は、高さも道幅も屋根も規制されている。
戸建ての家は許可しない。エネルギーのロスになるから。エネルギー、自然、交通にやさしい街であり、フライブルク市が若い人に住んでもらおうという都市計画により再開発した。18歳以上の33%が住んでいる。集合住宅は分譲で3,000万円位。子供と自転車のチャイルドストリートになっている。
自動車も団地内に入るとゆっくり走る。
庭園も市と半分ずつ土地を出し、通路を広くし、自分の所は花等を植えて管理している。無暖房住宅である。窓で一杯採光し、木造で暖房している。暖房費は年1万円以下。団地内は敷地ごとにエネルギー消費量が決められている。
5月11日:集合住宅には藤が植えられており、部屋を涼しくする効果が
立木は80センチメートル以上は伐採できないように規制している。
そのことから、戦前からの大木が数多く残っている。小さな公園が数多くあり団地内には保育園もある。
団地内の暖房はチップの暖房。暖房供給工場もある。フライブルクの市民はこの団地に入りたいと多くの人が希望しているということである。
団地の設計も大型の会社でなく地元業者が市と協力して建設してきている。
通訳の前田さんに案内して頂き説明を聞きながら、時間をかけて団地内をゆっくり一周する。
電車に乗り、旧市街地の大聖堂がある場所に行く。
(←写真左) 5月11日 小さな公園。大木の上に小屋がつくられ子どもの遊び場である 周辺には水路が通り常時水が流れている。涼しさが伝わる。 |
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5月11日 ミュンスター大聖堂の周りは朝市の出店で一杯である。近隣から車で引っ張ってきて店を出している。お昼ごろまでやっている。(写真→) |
歴史のある大聖堂の中を歩きながら、昼食会場に行く。ドイツの有名な豚肉の骨付き肉を出してもらった。ともかく大きすぎてポテトも含めて半分しか食べる事が出来なかった。
(写真右→)5月11日:レストランの有名な骨付き肉。でか過ぎて全部食べたものは誰もいなかった。
前州原発担当者、市環境保全局長 ヴェター・ウエルナー博士
プロジェクターを利用して熱の入ったレクチャーを1時間。
日本にも7回来ているということである。議会が3時過ぎからあるというところ時間を割いて説明をして頂いた。
人口225,000人 面積155ha。人口は年々伸びている。大聖堂を中心に街の中心地の活性化ができている。
色々な人々が集い、国境を越えてフランス、スイスからの人々も多い。1992年 環境都市になる。2年前に大気に優しい街になる。
(←写真左)市環境保全局長 ヴェター・ウエルナー博士と共に。左側から、久保田議員、小林議員、ヴェター・ウエルナー博士、渡辺議員、佐藤議員、金井議員=5月11日 | |
水路には常時水が流れ、石畳の重厚感がある街並みである=5月11日 |
市街地で買い物をするために、デパートに行った。それぞれが、ドイツの色んなお土産を買い求めた。電車がひっきりなしに通り、横断歩道も信号機もなく、人を中心に電車が走っている。街中に水路が流れており、石畳の古い歴史がある街並みが続いている。 フライブルクの教会を中心にした歴史ある建造物と、都市計画のしっかりした街づくりをしながら環境都市を作り上げている。
今日は暑くて35度にもなった。朝から17,000歩もあるき、ちょっと疲れ気味である。
一旦ホテルに戻り、荷物をおいて夕食に出かける。ドイツ最後の夜であり、日本料理も食べたいと「すし屋」に行った。
日本語がしゃべることができて「ホッ」とする。ビールと日本酒ですしを食べながらドイツの2日間の反省も含めて懇談をする。フライブルクの有意義な環境政策を聞き、実際に人々が生活している状況を見た。こせこせしている日本と違い、人々がゆっくりとスローに生活している姿を目の当たりにした。意義あるドイツの2日間であった。